焼け落ちた新橋駅
屋根が焼け落ち外壁だけ残った2代目の新橋駅(左)。関東大震災発生の夜に火が回った=1923(大正12)年
Shimbashi Station burns down
The ruins of second-generation Shimbashi Station(L) which burned down following Great Kanto Earthquake.(1923)
1923(大正12)年
9月1日午前11時58分―
突如関東の地は大地震に襲われた
東京や横浜などに未曽有の被害をもたらした関東大震災。震源地は相模湾北西部、マグニチュード7.9、死者・行方不明者合わせて約10万5000人を超え、都市部では建物の倒壊や火災が発生。沿岸部には津波も押し寄せ、山間部は土石流や地滑りが多発しました。
経済被害は東日本大震災の10倍ともいわれます。地震発生翌日の大阪朝日新聞号外は「あらゆるものは倒れた、壊れた、焼けた、死んだ」と見出しを打ちました。そして、震災後の社会不安に紛れ、流言飛語により多くの朝鮮人が虐殺されたことも、ぜひとも記憶にとどめておくべき事件です。
2023年は関東大震災から100年。当時を振り返り、今後の対策につなげてほしいとの思いから、今回の写真展を企画しました。
展示する99枚の写真の中には、当時の日本電報通信社(現・電通)が撮影し、共同通信社が保有する貴重なオリジナルネガも多数含まれています。その鮮明な画像に注目してください。
屋根が焼け落ち外壁だけ残った2代目の新橋駅(左)。関東大震災発生の夜に火が回った=1923(大正12)年
The ruins of second-generation Shimbashi Station(L) which burned down following Great Kanto Earthquake.(1923)
朝日を受けるJR新橋駅汐留口。高架には東海道新幹線が通る。右側には新交通システム「ゆりかもめ」新橋駅がある=2023(令和5)年5月2日
Sunshine brightens up JR Shimbashi Station's Shiodome exit. The Tokaido Shinkansen Line runs on elevated tracks and Shimbashi Station on the new transit waterfront line Yurikamome is on the right. (May 2, 2023)
震災後の火災で焼け落ちた有楽町の東京電灯本社(右後方)。左は開業披露当日の帝国ホテル。強い揺れに崩れることなく、従業員らの尽力により延焼を防止することができた。被害が最小限に食い止められ、外国公館や被災企業の復興の拠点として開放された=1923(大正12)年9月1日
A fire destroys the headquarters of Tokyo Dento Kabushiki Kaisha(Tokyo Electric Light Co.) (rear right). On the left is the Imperial Hotel on its opening day. The hotel survived the temblor while employees and others prevented the blaze from spreading. Damage was limited to the minimum, and the hotel operated as a reconstruction base for diplomatic missions and affected companies. (Sept. 1, 1923)
一面焼け野原となった京橋付近と銀座方面(右側)。被災した市電が残る大通りを人力車や馬車、自転車などが行き交う=1923(大正12)年
Kyobashi and Ginza (R) are destroyed by fire. Streetcars remain abandoned, and rickshaws, horse-drawn carriages and bicycles crisscross the streets. (1923)
震災から数日後、上野の山から望む焼け落ちた上野駅。後方中央は浅草方面で、折れた「凌雲閣」(通称・浅草十二階)が見える=1923(大正12)年9月
Ueno Station a few days after the earthquake and fire. In the rear center is the 12-story Asakusa Ryounkaku tower. (September 1923)
桜木町付近から見た一面焼け野原となった横浜市の惨状。遠方の建物は2代目横浜駅(現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近)。関東大震災で駅舎が焼失、1928(昭和3)年に現在の位置に3代目横浜駅が開業した。初代横浜駅は現在の桜木町駅にあった=1923(大正12)年9月
The devastated city of Yokohama, as seen from near Sakuragicho. In the distance is second-generation Yokohama Station(near present-day Takashimacho Station on the Yokohama Municipal Subway). Its station building was destroyed by fire, and third-generation Yokohama Station opened in 1928, as it stands today. The original Yokohama Station was located at present-day Sakuragicho Station. (September 1923)
赤坂区(現在の港区)の倒壊家屋が連なる地域。赤坂区では焼失家屋は少なく、犠牲者の多くは圧死によるものだった=1923(大正12)年9月
A row of collapsed houses in Akasaka Ward(present-day Minato Ward). Houses destroyed by fire in the ward were limited in number but many victims were crushed to death. (September 1923)
地震の揺れで道路が大きく損傷、車両が取り残された横浜市足曳町(現在の中区)の横浜市電の線路。市電が所有する153両のうち95両が焼失あるいは大破した。変電所も焼失、倒壊し、全線復旧は10月26日になった=1923(大正12)年9月
The earthquake cracks roads, leaving streetcars abandoned in Yokohama's Ashibiki town(present-day Naka Ward). Ninety-five of 153 city streetcars were destroyed or heavily damaged. The streetcar service was fully restored on Oct. 26. (September 1923)
東京湾に浮かぶ猿島を望む横須賀市の深田町、観念寺町付近(現在の米が浜通付近)。壊滅的な被害を受けた地域だが、バラックが建ち始め、洗濯物が干されている=1923(大正12)年
Fukada and Kannenji towns (present-day Komegahamadori) in Yokosuka facing Sarushima Island in Tokyo Bay are devastated, prompting construction of barracks. (1923)
家財道具を荷車などに積み避難、上野駅前広場を埋め尽くした人たち。やがてここにも火が入り、上野公園へ逃げ込んだ=1923(大正12)年9月1日
Many survivors, carrying their belongings by cart, fill the plaza in front of Ueno Station before raging fires forced them to take refuge in Ueno Park. (Sept. 1, 1923)
静岡県小山町の富士紡績の工場で、鉄管内に避難した従業員=1923(大正12)年9月
Workers seek refuge in steel pipes at Fuji Spinning's Oyama factory in Shizuoka Prefecture. (September 1923)
浅草公園内に所狭しと並ぶバラックの避難小屋。食べ物屋、果物売りなども。浅草公園は現在の台東区の浅草寺境内一帯=1923(大正12)年
Numerous barrack huts for disaster refugees fill Asakusa Park(inside the present-day Sensoji Temple in Taito Ward), along with food stalls and fruit vendors. (1923)
警視庁の施設に保護された関東大震災による迷子。警視庁は9月20日までに迷子、迷い人1100人以上を保護し、保護者や引き取り人を捜した=1923(大正12)年
Lost children are under protective custody of the Metropolitan Police Department. The Tokyo police logged more than 1,100 lost children and people under protective custody through Sept. 20 to search for their families and guardians. (1923)
田端駅で、先頭の機関車や屋根にも鈴なりになって避難する人たち=1923(大正12)年9月
Evacuees cluster around locomotive engine at Tabata Station. (September 1923)
焼失した横浜市の桜木町駅前に張られた尋ね人や避難先、告知などが書かれた紙。通信や郵便などの連絡手段が絶たれた被災地では、駅や派出所、焼け残った建物など多くの人が通る場所への張り紙が「伝言板」となった=1923(大正12)年
Patches of paper about missing persons and places of refuge and other notices are plastered in front of Sakuragicho Station. In disaster-hit areas, where telecommunication, postal and other means of getting in touch with one another were lost, such patches of paper were posted at railway stations, police boxes and the remains of burned buildings as message boards. (1923)
大雨で冠水した深川区(現在の江東区北部)の道路を、着物の裾を持って歩く人たち=1923(大正12)年
Women in kimono wade through flooded roads in Fukagawa Ward (presently nothern Koto Ward). (1923)
震災で壊滅したが直ちに仮設で開場し、秋物野菜が並ぶ神田多町(現在の千代田区)の青物市場。その後、1928(昭和3)年には秋葉原西北に、89(平成元)年には大田区へと移転した=1923(大正12)年9月
A makeshift vegetable market opens in Kanda-Tacho(presently in Chiyoda Ward)to sell autumn vegetables. The market was later relocated to the northwest of Akihabara in 1928 and Ota Ward in 1989. (September 1923)
大勢の人たちが避難生活を送る上野公園で、被災児童に配るにぎり飯を作る日本女子大卒業生の会のメンバー。市内の各大学も避難場所の提供、医療活動、衣類や食事の提供など多岐にわたる救援活動を実施した=1923(大正12)年10月
Members of Japan Women's University alumnae group make rice balls for children living in Ueno Park shelters. Other universities and colleges in Tokyo also provided shelters, participated in medical activities and offered clothes and meals. (October 1923)
焼け野原となった深川福住町付近(現在の江東区永代)。中央右の建物は第一国立銀行深川支店。その左と上方の大きな建物は渋沢倉庫。深川区は現在の江東区の西部に当たり、区内の8割以上が焼失した。東京大空襲でも区内のほぼ全域が焼失し、多くの死者が出る被害を受けた=1923(大正12)年
下:かつて第一国立銀行深川支店があった交差点。土曜日の朝、広い永代通りを行く自転車=2023(令和5)年5月27日
A neighborhood of fire-ravaged Fukuzumi town in Fukagawa Ward (present-day Eitai, Koto Ward). On the center right is the Fukagawa branch of First National Bank. The big buildings on the left and above are Shibusawa warehouses. More than 80% of Fukagawa Ward(present-day western Koto Ward)was destroyed by fire. The ward, virtually obliterated, suffered many casualties in U.S. air raids during World War II. (1923)
lower: A crossing in Eitai, Koto Ward, where the Fukagawa branch of First National Bank once stood. (May 27, 2023)
楠木正成の銅像を望む宮城外苑(現皇居外苑)にずらりと並ぶ避難者が暮らすテント(天幕)。天幕村と呼ばれたが、震災翌年の1月で村は解散した=1923(大正12)年
下:皇居外苑。東京駅に近く、緑が多い都心の貴重な空間。外国人観光客も多い=2023(令和5)年4月21日
Tents for refugees fill the Imperial Palace Plaza (present-day Imperial Palace Outer Gardens) under shadow of bronze statue of samurai warrior Kusunoki Masashige. The tent village was dismantled in January. (1923)
lower: The Imperial Palace Plaza is close to Tokyo Station and attracts many foreign tourists. (April 21, 2023)
本所の陸軍被服廠跡(現在の墨田区横網)に積まれた犠牲者のお骨と骨灰の山。被服廠跡で焼死した3万8000人の遺体はここで火葬された=1923(大正12)年9月
下:東京都慰霊堂。関東大震災で亡くなった人たちの遺骨を納めるため、震災で最も被害が大きかった被服廠跡に建立された。1945(昭和20)年3月の東京大空襲などによる犠牲者の遺骨も納められている=2023(令和5)年4月19日、東京都墨田区
A mountain of remains and ashes at the former Imperial Army Clothing Depot in Honjo (presently Yokoami, Sumida Ward). About 38,000 people perished and were cremated in the depot. (September 1923)
lower: Tokyo Memorial Hall. It was originally built for Great Kanto Earthquake victims but later added the ashes of victims of U.S. air raids during World War II. (Sumida Ward, Tokyo, April 19, 2023)
危機管理教育研究所 代表/危機管理アドバイザー 国崎 信江
横浜市で生まれ育った私は、関東大震災は80年したらまた起きる(当時は80年周期で起きると信じられていたようです)という周りの大人の声を耳にしながら育ちました。小学校でも関東大震災を学び、その不安から地震が来ないことを祈りながら寝ていました。
この影響なのか、私は危機管理アドバイザーとして活動をしています。きっかけは阪神大震災で、神戸は街並みが似ていたこともあり、関東大震災と阪神大震災の被害を重ね、直接的な被害はないもののわが事として衝撃を受け、以来地震から命を守る方法を探る道を今日に至るまで必死に歩んできました。
当時横浜は、国内最大の貿易港として栄えており、外国人居留地には外国商館、銀行、ホテルなどれんがや石造りの洒落た洋館が建ち並び、南京町(現:中華街)を含めて異国情緒あふれる商業都市として発展していました。このときの横浜はすでに44万人以上が暮らす大都市で、開港から近代都市へと60年をかけて発展してきました。
あれから100年。日本は近代都市化が進み、都市機能の集中化、人口増加、工業の発展により海岸の埋め立て造成、建物の高層化、地下空間の高度利用化が進められてきました。東京、名古屋、大阪に代表される大都市は、たいてい軟弱という地盤工学上の問題を抱えていて、大規模な災害が起きれば、揺れの増幅、液状化現象、地盤沈下、津波の浸水、大雨時には内水氾濫や地下空間への浸水などの高いリスクが潜在しています。
地球物理学者の寺田寅彦氏は、随筆「天災と国防」で「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である」という名言を残しています。私はいつも、多発する近年の災害被害の実態と訓練や防災学習の内容が見合っていないと感じており、文明の発展とともに災害の様相も変わり、災害で発生した事実こそがその時代を反映する教訓であるはずなのに、防災は昔のままで追いついていないと思っています。
わが国には、地震調査研究推進本部、国家プロジェクトの戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)、国立研究開発法人防災科学技術研究所等があり、日々の調査観測や研究開発による最先端の防災科学技術の成果が蓄積され実社会に利活用されています。しかし、国民の防災力向上に資するところまでは十分に反映されていません
たとえば、関東や東海地域の子どもたちが訓練で着用している防災頭巾は、綿やウレタン樹脂素材が多く、それが地震時の飛来落下物の衝撃にどこまで耐えうるのか、公的機関による科学的検証がなされないまま戦時中の防空頭巾の名残として使われ続けています。また、「揺れたら机の下」の指導は固定していない机に潜らせることが什器の挙動を踏まえた科学的知見からも有効なのか、火災時に「濡れたタオルやハンカチで鼻や口をおさえる」指導は、一酸化炭素などの有毒成分を含む煙を吸って亡くなる人が多い実態を踏まえた指導であるのかなど、その時代に合った検証と指導が求められます。
先人の思想や知見を重んじつつも、昔と同じような事象が起きたとき、今の状況からどのような被害になり、どのような解決方法があるのかを防災の概念に縛られることなく、ましてや感覚的かつ不安定な要素のまま受け入れるのではなく、国や公的機関の科学的知見に裏付けられた根拠をもってその答えを一人一人が主体的に探り続けていくことが重要だと思っています。
巨大都市として施設や設備も近代化し情報伝達の手段も整備されると、人は、自らの力で災害の危険性を意識しなくとも、施設・設備を頼り、緊急時の速報や誘導に従って行動すればよい、という依存意識が強くなります。とくに近年は計画書やマニュアルに重きがおかれ、自主判断の機会が失われているので、訓練で経験していないこと、マニュアルで想定していないことには思考停止状態になり、個人も組織も対応能力が弱まっているように思います。
関東大震災では流言飛語に惑わされ暴動や虐殺が行われました。通信手段が多様になった現代でも大規模な災害時にはデマが出ます。情報過多の社会では、自らがその情報の発信元、鮮度、広がりの範囲、自分が広めることの影響を見極める力をつける必要があります。その意味では、いつの時代でも被災者の拠り所になるのは新聞です。テレビやネットの情報はあっという間に流れて更新も早くじっくりと掴むことが難しいのですが、新聞は自分のペースで落ち着いて読めて、記録として保存することも容易です。また、回覧して情報を共有することで人々の動揺を抑える効果もあります。なにより新聞は報道だけでなく読む人に希望や未来を伝える力もあります。
今後新聞には、命を守る真の防災に向き合った、科学的知見からの防災情報の発信と、災害が起きたときだけではなく常に防災の情報に触れる機会を創出し、自らの命は自らで守れる力を育み、幾度となく襲う災害にしなやかに強く生き残れるように、日本の未来の安全安心に貢献する情報を発信し続けてくれることを期待します。
横浜市生まれ。女性や母親の視点による防災を研究し、2008年一般社団法人危機管理教育研究所を設立。
20年以上にわたり第一線で防災・防犯・事故防止対策を提唱する。危機管理アドバイザーとして行政、企業、マンションなどの
リスクマネジメントコンサルティングに携わるほか、省庁の検討・審査委員や自治体の防災アドバイザーなどを歴任。
NHK総合ラジオ「マイあさラジオ」では「くらしの危機管理」コーナーに出演中。防災・防犯に関する著書多数。