ガレッジセール・ゴリ(お笑い芸人)
「復帰っ子」。1972年生まれは必ず言われるこの言葉。江戸っ子、駄々っ子、もやしっ子、いろんな言葉はあるけれど「復帰っ子」と呼ばれる地域は沖縄だけだろう。
復帰の1週間後に僕は生まれた。復帰前の事など何も知らない。ドルを使っていた事も、パスポートで東京に行った事も、車が右側通行だった事も知らない。唯一分かっているのは復帰10カ月前に両親が愛し合った、という事ぐらいだ。当時の沖縄はまだ建物も低く、小さな森や林などもたくさんあった。犬は放し飼いが当たり前で、近所の犬によく足を噛まれた。今なら裁判ものだ。
僕が4歳になる1976年、具志堅用高さんが県民初のボクシング世界チャンピオンになった。当時の沖縄は日本の近代化に乗り遅れ、全てにおいて劣っていた。そんな劣等感を抱く県民にとって具志堅さんの偉業は大きな勇気を与えた。今は変なオジさんだが……。
日本復帰から6年後、ようやく車が左側通行に戻った。右側通行に慣れていた県民はヒヤヒヤしながらハンドルを握った。6歳の僕も、右側か左側か迷いながら犬の横を通ったが、結局噛まれた。
7歳になる僕は大阪に転校することになる。沖縄しか知らない田舎者にとって大都会「大阪」の景色は同じ日本とは思えなかった。
生まれて初めて乗る「電車」。鉄製の巨大なヘビが大量の人間を飲み込み、線路の上をニョロニョロと進む。僕にとっては、もうアトラクション気分。車両の先頭から最後尾まで歩く。ちょっとした冒険だった。地下には地下鉄も走り、巨大モグラの通り道がどこまでも続く。沖縄なら不発弾だらけで工事が進まないだろう。道路の上には高速道路も伸び、時速30キロで追い越し車線を走り続けるオバアの姿もない。繁華街は巨大デパートが立ち並び、国際通りが学園祭に感じた。7歳にして味わう「沖縄の遅れ」。
4年後、小学5年生で沖縄に戻る。特に変わった様子もなく相変わらず犬も噛み付いてきた。「週刊ジャンプ」は1週間遅れで届いた。電話越しに大阪の友達がジャンプの内容を教えるのが迷惑だった。
当時の沖縄は「断水」もあった。今ほどダムも整備されておらず、雨が降らないとすぐ水不足になった。ニュースで断水が発表されると、すぐ湯船に水を溜めた。沖縄で唯一湯船が使われる日だ。それ以外の日は、ただのくぼみでしかない。湯船の水を使い炊事や洗濯をした。沖縄の屋根の上に必ずある水タンクも断水対策のためだと後から知った。
中学校に上がると男子は全員丸坊主になった。当時の中学は丸刈りが校則。「非行に走らないため」「清潔に保つため」理由はいろいろあるが、今なら人権問題に発展しただろう。バレー部、バスケ部、サッカー部、どの部活に入ろうが、みな野球部に見えた。女子にモテたい年頃の丸刈りは悲しく、カッコつけてジェルなど塗ってみたが、丸坊主がテカテカ光るだけで汗っかきの野球部にしか見えなかった。
丸刈りだろうが非行に走るヤツは走った。当時の沖縄はヤンキーファッションも独特で、内地とは、かなり違っていた。内地のヤンキーは「ボンタン」と呼ばれる学生ズボンを履いた。太モモ部分がダボダボに太く、足首に向けて細くなる。沖縄は真逆の「ラッパズボン」。太モモ部分がピチピチで、足首に向けてラッパのように広がる。まるでフォークシンガー。吉田拓郎、南こうせつ、沖縄のヤンキー、見分けがつかない。でも当時はそれが恐ろしかった。
国際通りでラッパズボンを見かけると、すぐ路地に逃げ込んだ。しかし彼らはインパラを逃さない。気づけば背後に付かれ、カツアゲの定番「希望ヶ丘公園」に連行された。靴の中に隠したお金まで全て取られる。「取られない場所はどこだ……」靴下の中に隠す事にした。フォークシンガーとの知恵くらべ。いつもの国際通り。また背後に付かれ希望ヶ丘公園に行く。もう靴の中に金はない。今回は俺の勝ちだ。
「靴下脱いでごらん?」まさかの言葉が出る。彼らには全てお見通しなのだ。希望ヶ丘公園は「希望のない公園」として記憶に残っている。
首里高校に入学し、2年生になった1989年、「首里城」の再建工事が始まった。学校近くは作業トラックが行き来し騒がしくなった。まさか30年後に火災に遭うなど誰も想像しておらず、期待に胸を膨らませた。ちなみに23年後に首里高のグラウンドから不発弾が出てくる事も誰も想像してなかった。サッカー部だった僕は3年間、不発弾の上でボールを蹴っていた。あの世にゴールしなくて本当に良かった。
1990年、沖縄に大きな変化が訪れる。栽弘義監督率いる沖縄水産高校が甲子園で初めて決勝まで勝ち進み、みごと準優勝を果たしたのだ。ほとんどのスポーツにおいて、まだ内地に追いつけない状況の中、沖縄が全国に通用することを栽監督が証明してくれた。決勝当日は県民全員がテレビの前にかじりついた。父の使いでビールを買いに行くと「いま甲子園見ているから後できて!」と客なのに帰された。タクシー運転手はみな路肩に車を止め、ラジオに耳を傾けた。その日の沖縄は経済がストップしていたと思う。劣等感を抱えた県民にとって、それほど誇らしい出来事だった。
着工から3年後の1992年、いよいよ沖縄のシンボル「首里城」が完成した。沖縄観光にも勢いが乗る。芸能界では「沖縄アクターズスクール」が旋風を巻き起こし、安室奈美恵を筆頭にMAX、SPEED、DA PUMPなど次々とスターが生まれた。全てにおいて遅れが目立った沖縄は徐々に「オシャレで、カッコいい、憧れの島」へと姿を変えていった。97年には新都心が開放され、北谷のアメリカンビレッジなど、次々と新しい街ができはじめた。2000年には先進国の首脳陣が集い「沖縄サミット」が開催。この小さな島が世界に発信された。
2001年にはNHKの朝ドラ「ちゅらさん」もスタート。沖縄ブームは止まらない。今まで「ゴリ」という芸名に反対していた母親も、僕の朝ドラ出演を機に「わたしのゴリ~」と芸名で呼ぶようになった。NHKは親の手の平も返した。劇中に出てくる「ゴーヤーマン」というキャラクターグッズも飛ぶように売れ、これに目をつけた僕の父親がNHKに直接電話をし「ゴリの父親ですけどぉ、私の店でもゴーヤーマンを売りたいんですが」と商売に入り込もうとした。すぐNHKから吉本に電話が入り、僕に伝えられ、しっかりとオトウを注意した。
02年は「美ちゅら海うみ水族館」が開園。03年は「ゆいレール」開通。高速道路もすでに通っている。09年は宮里藍がアメリカ女子ゴルフツアー初制覇。21年は東京オリンピックで空手の喜友名諒選手が県民初の金メダル。
もう沖縄に遅れはない。「ナイチャー(内地の者)には負けん!」と口グセのように言っていた県民の言葉も、もう聞かなくなった。みんなが自分の県に誇りを持ち、歴史、文化に胸を張れるようになった。
2022年今年、いよいよ復帰50周年を迎える。僕の人生も50周年。僕も沖縄もいろいろあった。その全てが栄養になった。これからの沖縄には期待しかない。また新たな人材が県民を驚かせ、勇気づけるであろう。アイデンティティーである首里城の再建ももうすぐだ。
可能性あふれる島「沖縄」と共に、残りの人生を伴走していきたいと思う。
ガレッジセール・ゴリ
1972年5月22日、那覇市生まれ。日大芸術学部映画科中退後、中学時代の同級生・川田広樹さんとお笑いコンビ「ガレッジセール」を結成、舞台やテレビで芸人として活動。2006年から映画製作を手掛け、本名の照屋年之名義で監督した長編作『洗骨』(20年)は第60回日本映画監督協会新人賞を受賞。22年4月28日には自身初の小説「海ヤカラ」を発表。